「余計な世話」と闘う
「おせっかい」という言葉を広辞苑で引くと、「余計な世話をやくこと。」と出てくる。
余計な世話。
23年も生きていればそりゃ、おせっかいをいただく場面に出くわしたことはあるが、おせっかいというのは私の中でなんだかありがたく思えるようなことで、
「ふらふらで危なっかしい私」の腕をちょっと引いてくれるような思いやりが垣間見える気持ちがし、余計な世話とは同義語にはならない。
余計な世話だと思ったら余計な世話だ!と心で叫ぶだけで、おせっかい腹立つ!なんて言葉は思い浮かばないのである。
異国の地で、私より異国に慣れた、私と同じ言葉の通じる人間におせっかいをされるとなると、これはもはやおせっかいではなくただお世話されている、と思えてくる。
メニューを読めない私のお世話、知らない街を歩く私の付き添いすなわちお世話、話を聞いてくれるお世話、そして、厳しい意見をくださるお世話。
お世話してくれるのは本当にありがたい。それが多少なりとも乱暴で、言葉足らずで、微笑みが少なくとも、無いより有る方がよっぽどいい。
そしてありがたいことに、中国語の拙い私の世話を焼いてくれる台湾人もいる。
ああありがたいことだ、もう今すぐ彼らに渾身の謝謝を言いたい。思いっきり発音良く、大きな声で伝えたい。
私がこの世で一番「余計な世話」だと思うことは
女性の年齢に対してやたらと響きのいい言葉で要らぬ称号をつけてくるいまいましい社会。
今年の師走に24歳、来年末にもなれば25歳になり、いよいよ腹立つほどいい発音で「アラサー」と呼ばれ、恋愛や結婚の相手がいなければ「こじらせてる」と笑われ、30代になり独身でいれば「おひとり様」とご丁寧にも「お」をつけた言葉が降ってくるのかしら。そんで、周りの意見や友人の人生の決断に少なからず左右されて、じわじわと喉から手が出るほど「一生の約束」や「伴侶」や「第一子の誕生」が欲しくて焦るのかなんてぼんやり考える。
「誰かと手を取って生きていきたい」
「いつか子どもを育てたい」
そう思うことは人間自然なことだと思うのだけど、
なんというか、どっかのだれかが勝手に考えて取ってつけた単語と、後ろからベタベタ貼り付けられた意味に脅かされてそう思うなら、それは踊らされてる。
だからさ、未来の私に対して、社会や誰かが「30代なんだしそろそろ結婚したら」とか「将来を見据えて婚活しなよ」とか言ってきたら、もうその時は腹の底から
余計な世話だコノヤロー
って言ってやる。
なんて分かりもしない将来についてあーだこーだ考えている。ふらふらしている今だけ。
とりあえず、中国語の能力を上げて、この留学を意味のあるものにして、父母に美味しいご飯をご馳走するぞ。
それから、自分の世話で必死になっている今だけれど、将来は誰かの世話とおせっかいもする人間になる。
以上。